【「せしめる働き」無意識とその改造法】 ※ヨガの思想より
人間は普通、表面上に現れている意識を心と思い易い。そしてこの無意識の存在についてはあまり気づかないのである。だが、一つの現象に対しても人により色々な見方、考え方をしているように、このせしめている働きが無意識なのである。
人間は、こう思おうと思ってから、そう思うのではなくて、ついそう思ってしまう。そう思うまいと思ってもそう思ってしまうのである。
体にあってもその通りで、体は意志のままには動かない。病気になろうと思って病いになる人はなく、病が現れてきてしまうのである。
こうしたことがわかることは、自己の思考と行動を支配しているものは、この内在して、せしめている動き、つまり無意識だということをさとることなのである。
人間は、このひそんでいる無意識が動かすとおりに動いてしまうのである。とくに意識的に行動する余裕のない時には、この無意識が全支配権を持ち、余裕のある時には、この無意識と意識とが相互に批判しあって、力の強い方が言行の支配権を握るのである。
ここで課題となることは、この無意識をどのように支配すればよいかということである。
意識は頭で考えることであり、無意識は体全体についた知慧であるから、無意識は体を通じて支配する以外にはない。体を通じてしか無意識を改造することはできないということを意味する。だからして考えてもわからないし、読んだり、聴いたりしてもつかめないというのである。
体で考えるということは、実践してみることであって、体には意識で支配できる部分とできない部分とがある。そうしてこの二つの部分が相互に影響しあって、人間の日常生活にあっては、この支配できない部分が、支配できる部分に対して大きな影響力をもっているのである。
では人間はこの支配できないものに支配されて生きて行かなければならないのか、「否」である。
多くの人はこの支配の下に惰性的に生きている。その現れが苦しみである。
われわれはこれを支配しなければならない。支配できない部分も、支配できる部分の影響をうけるのであるから、この支配できる部分を通じて意識的に訓練して行けばよいのである。ここに修行の目的と効果があるのであって、修行とは体をはってやることである。
「人間を改造するヨガ・行法と哲学 改訂増補版 」より。
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