「素朴さ」と「自分らしさ」

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自分らしさj

「素朴さ」とは、「自分らしさ」に近いものかもしれません。
「大辞泉」によれば、「素朴」とは
「自然のままに近く、あまり手の加えられていないこと。単純で発達していないこと。また、そのさま」
「人の性質・言動などが、素直で飾り気がないこと。また、そのさま」
とあります。


手段としての「順応」、いかなる「強制」も、「素朴」への道には通じない、「抑制したり、自分を他人に置き換えたり、理想化したりすればするほど、素朴さは失われていくのです」。

自我の終焉―絶対自由への道」より。


このような精神の持ち主(※心が素朴で、何かになろうとしない人)は測り知れない理解力を持つことができるのです。なぜなら、その精神には何の障碍も恐怖もなく、またある目的に向かって進むということがないからです。(P.123)

精神と心がいかなる強制や命令や義務にもよらずに素朴になり、感受性が鋭敏になったとき、私たちは私たちの問題にきわめて容易に取り組むことができることに気づくのです。(P.124)

クリシュナムルティの言う「素朴さ」とは、絶えず自分の内部の動きに注意を払い、「自分」に留まり続けること、根拠のない安心・安全を求める精神の働きから自由であることと、私は理解しました。

そういったあり方は、ひとつの「自分らしさ」であろうと、私は考えます。私たちは、過去に学習し、記憶の倉庫にしまっている恐怖のパターンや精神の働きが次々に生み出す不安からの「逃避」、自分ではない者になろうとする「努力」によって、どんどん「自分らしさ」を失っていきます。すべては精神の働きを、見つけて見抜いていないために起こることであると、彼は言います。

端的に表現すれば、「精神」「心」の働きに惑わされる「自分」、それを「本当の自分」だと思っている「自分」、その「精神」や「心」の働きの空虚さ、ただひたすらに、それを見つめ、気づき続け、それらに敏感であることにより、私たちは、何重にも着込んだ「囚人服」に気づき、それらを脱ぎ去ることができる、そういうことではないかと思います。

>> 人生の意味