人生の意味
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「自分は何のために生まれてきたのかなあ?」と思ったことはありませんか。私にはあります。どんなときに、そのような思いが湧くかというと、意味があるんだか、ないんだか分からない、「運動のような反復性」を、毎日の生活に感じたときです。この「運動」とは、規則的なものであることもあれば、不規則な場合にもあります。また、「退屈」「つまらない」という感覚を伴っていることに気づきます。
人生の意味について、クリシュナムルティはこう語ります。
「確かに、満ち足りて生きている人や、物事をあるがままに見て、自分の持っているものだけで満足している人は、混乱していないのです。それゆえ、人生の目的は何かなどと訊ねたりしないのです」
「問題なのは、私たちの人生が空虚であるために、私たちが人生の目的を求め、それに向かって努力しようとすることなのです。そういう人生の目的は何の現実性も持たない、単なる知的遊戯に過ぎません」
「あなたが人生の意味を問うとき、あなたは実際は逃避しているのであって、人生とは何かを理解しているのではありません。生きることは自他の関係であり、関係の中での行為なのです。私がこの関係を理解していなかったり、あるいは関係が混乱しているとき、そのとき私はより豊かな意味を探し求めるのです」
「私たちが人生の目的を求めるのは、私たちに愛がないからなのです。愛があるとき ― 愛は不滅の生命を持っています ― そのとき、神の探求などということは起こりえないのです。なぜならば愛は神だからです。私たちの生活がかくも空虚であるのは、私たちの精神が無数の専門的な事項や、迷信的な妄言で占領されているからです。そういう理由で、私たちは自分を超えた目的を探し求めるのです」
「自我の終焉―絶対自由への道 」より。
私がときに感じる「退屈さ」とは、「過去の反復」に対する反応であり、「その瞬間、その瞬間の鮮烈さ」、「つかまえておくことのできない体験」、「現在」を、私が生きていないから、ということに他なりません。
多くの人が指摘しているように、「恐怖」とは、過去に学習した反応です。私は、元々が超・心配性であり、強迫神経症体験者ですので、それはそれは長い間、恐怖と心配のなかで生きてきました。今にして思えば、そういった、過去に端を発した「恐怖」の反応によって、「日々を新しい自分で生きること」、「今の体験」ができなくなっていた、ということです。
現在は人生の意味を考えることは、あまりありません。少なくとも、悲しげな目をして、胸を詰まらせながら、「私の人生に、どんな意味があるのでしょう」と、問うことはなくなりました。「今月、これ以上のお金が入ってこなかったら、来月苦しいな」、そういう次元の悩みが浮上することはあります(笑)。
私もまだまだ不慣れですが、その瞬間、瞬間のもたらす恵みに感受性を向けて生きていると、日々に対する満足度が高まるみたいです。満足度は、「体験の深み」とも言い換えられます。
たまたま話題にしたので、補足すると、私は幼少時より、親の庇護や愛から突き放されて育ちました。親には「子どもの早期自立」という目論みがあったようですが、私には「私が頼ることのできるものは、この世に自分以外の何もない」「失敗したら、親に叱られる。居場所がない」という刷り込みが強化され、到底背負いきれない人生に関するすべての責任を、2歳の頃から背負ってアップアップ状態でした。
幸いなことに学校生活、友人関係に関しては、これといった深刻な問題は抱えませんでしたが、強烈に刷り込まれた「世界観・世界認識」により、常に身体は緊張状態、奇妙な行為の儀式に囚われ、それをしないといられないのです。たとえば、歩道では、道の真ん中を歩き、すべてのマンホールのフタの中心を踏まないと気が済まない。角は直角に曲がらないと気が済まない。それをできない場合は、その位置まで戻ってやり直していました。小学校低学年から、高校卒業くらいまで、そんな調子でした。これはひとつの例に過ぎません。チック症状との付き合いも長かった。
独り暮らしを始めてからは、ガスの元栓、施錠、そういったことの確認のため、家に引き返すことが日常茶飯事でした。仕事中にガスの元栓のことが心配になり、会社を早退したこともあります。今もときどき、それらの発作が顔を出しますが、大体治っています。なぜ治ったのか、書いてみたい気はしますが、長くなりそうなので、別の機会にします。
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