「ほんものの自己」のレッスン(1)
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ターミナルケア(終末医療)の臨床現場で活動してきた精神科医エリザベス・キューブラー・ロスとホスピスケアのスペシャリストであるデーヴィッド・ケスラーによる「ライフ・レッスン 」という本があります。
そこには “生きる” ということに関する、“14のレッスン”が挙げられています。
それらのうち、「ほんものの自己」のレッスンという章が、「自分らしく生きる」ことに関連がありそうなので、取り上げることにします。このHPでは、いろんな書籍を紹介してきましたが、同書は、私にとって特に好きな本の部類に入ります。
「どんな人でも偉大さの萌芽をもっている。『偉大な』人物が、ほかの人たちのもっていないものをもっているというわけではない。『偉大な』人物はただ、最良の自己のまえに立ちはだかる余分なものを脱ぎ捨てているだけなのだ。」(P.25)
そして 「だれもがアインシュタインやマイケル・ジョーダンのような天才になれるわけではないが、『余分なものを削り取る』作業さえすれば、あたえられた適性におうじて、だれだってなんらかの場で輝きを放つことができる。」(P.42)とも述べています。
著者は違いますが、同書においても、前の記事(「犠牲者」という役割)同様に、身につけてしまった仮面や役割が、いかに自分らしさを損なうものであるかが指摘されています。その仮面や役割が他者から見て素晴らしいそれであったとしても、“真の自己を葬る「岩盤」にもなりうる”ことに、もっと意識的に目を向けてよいと述べるとともに、“内なる否定性の存在を認めることは人間に必須の条件である”と指摘しています。
私の場合、仮に人間の内側を善なる白と、その対極に位置する黒に分けるとすると、「白の部分を増やし、黒の部分を減らしなさい」と親や先生、大人たちから教えられてきたように思います。黒の部分は、人から見られてはいけない、ゴミだらけの部屋のようなもので、その部屋を少しずつ片付け、人に見られても恥ずかしくないようにしなさい、というわけです。しかし、それは私にとって、口で言うほど簡単なことではなく、知らず知らずのうちに、部屋を片付けることよりも、ゴミだらけの部屋を外から見つけられないように、あるいはそんな部屋はないかのごとくに振舞うことに対し、エネルギーを投入する自分になっていました。
恐らくは、ゴミだらけの部屋を直視する勇気を自分が持たない、部屋を掃除するよりも部屋を隠す方がラクだと思っている、そんなところに原因があったような気がしています。しかし実際には、隠している部屋の中身にコントロールされた人生を送るのが、人の常であり、その意味において、隠したつもりでいても、隠し通せるものではないと思います。
「さまざまな役割の層がひとつずつはがれていき、内奥にひそむ、自分にとって好ましくないものがみえてくる。みえてきたものが自己の本質、自分の正体であり、それが悪であるというわけではない。 ただ、自分では気づかなかった一面があったというだけのことだ。自分が完全無欠な超善人ではなかったということが分かったら、超善人のイメージを脱ぎ捨てて、ありのままの自分でいる時期にきたというだけのことなのだ。人生のいかなる局面においてもつねに並はずれていい人であるとしたら、それはまやかしであり、にせものである。(中略)ある時期がくると、その負担の多い役割が自分の本質でないことに気づいて、役割の衣装を脱ぎ捨てる。それでもその人はいい人なのだが、周囲のみんなを幸福にするためにという義務感を感じずにすむだけ、その人らしい『いい人』になっている。」(P.30〜33)
>> 「ほんものの自己」のレッスン(2)
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