「ほんものの自己」のレッスン(2)
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先の記事で、私は、「仮に人間の内側を善なる白と、その対極に位置する黒に分けるとすると」と書きましたが、「ライフ・レッスン 」の著者たちは、人が隠したり拒絶したりしているのは、白でも黒でもなく、中間の灰色の部分だと述べています。
「たとえば『いい人』、孤独な人、犠牲者、殉教者。それらは影の自己の灰色の部分に相当する。(中略)自己のあらゆる感情を素直にみとめたとき、わたしたちは全体的な自己に立ちもどることができるのだ。」(P.34)
「真の自己を発見し、真の自己でありつづける」ため、「
ほんとうはなにがしたいのか、なにがしたくないのかをみわける」ため、私たちは経験をする必要があります。経験を通してのみ、真の自己を見出すことができる、と言えるかもしれません。
私が大いに共感したのは、次の一節です。
「他人の目を意識してなにか価値ある行為をしても、それは自分にとっての価値ある行為にはならない。にもかかわらず、わたしたちの多くはしたいことをするよりもするべきことをしながら生きている。」(P.39)
他人の目を意識しての行動というのは、点数稼ぎの場合もありますが、正しさや適切さの基準が外にある、という思い込みからやってくるような気がします。つまり、自分が自分にとっての価値ある行動をした場合、それを外側の何かに照らし合わせると「間違っている」のではないか、だとしたら、それは自分の価値観が間違っていることを示すものなのではないか、と心配するわけです。
同書の著者2名は、ターミナルケア(終末医療)に関わっている人たちであるので、死の蓋然性のなかで生きている“死を待つ人々”からの学びを私たちに教えてくれています。
つまり、仮に明日あさってあたりに、高い確率で、自分が死ぬ運命にあるとしたら、外の基準に照らし合わせた行動をするのではなく、自分の心の底から出てくるものを言葉にし、行動にするのではないですか?そして、それがあなたがずっと探していた/探すことを避けていた、あなたの真の自己であり、あなたの望んでいた生なのではないですか?そういう問いかけだと感じます。
自分自身の内側と外側が一致したとき、「人はもはや自己を隠すことも、恐れることも、守ることもなくなる。周囲の状況を超越したなにものかとして、自己を見るようになる。」(P.42)
自分自身がそのような状態になることについて、何も死が近づくまで待つこともない、そのように言っています。
>> 以下、続く
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