「努力」という名の闘争
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「努力」とは、美徳とされています。 「もっと努力しなさい」 「はい、一層の努力をします」
日常的にありふれた会話です。
私も「努力する」という言葉で切り抜けられそうな場面では、積極的に、この言葉を使います(笑)。「努力します」という言葉の裏にあるのは、「今の自分=ダメ」、「まだまだ未熟な自分であるという、『謙虚』とされる認識」であり、「相手の希望に沿う自分に変化する」意思を意味します。つまり、「努力」の陰には、「ダメ出し」をする側とされる側という、力関係が存在します。仮に「自分」が「自分」に、「一層の努力」を命じたとしても、です。
この「努力」のもつ働きについて、クリシュナムルティは、「自我の終焉―絶対自由への道 」のなかで、こう述べています。
努力とは、あるがままのそれとは違ったものに、つまりあるべきものとかなるべきものに変える闘いを意味してはいないでしょうか。私たちはあるがままのものに直面することを避けるために、絶えず闘ったり、あるいはあるがままのものから逃避しようとしたり、それを変えたり直したりしようとするのです。真に満足している人間というのは、あるがままのものを理解し、それに正しい意味を与えている人です。それが本当の満足なのです。(P.82)
しかし努力や、何かになるための闘いは、果たして本当に不可欠なのでしょうか。その程度やレベルにかかわらず、目的や願望を達成したいという欲望が存在するところには、必ず闘争があるのです。(P.85)
「私」が何ものでもないから、また「私」が不十分であり、空虚であり、心が貧しいから、何かになろうとして闘いが始まるのです。(中略)この「私」の空虚を満たすために、「私」の生涯のすべてを費やすのです。(P.85)
あるがままのもの ― つまり空虚さと内面の不十分さ ― を理解し、それと共に生き、完全にそれを理解しきったとき、創造的な「真の実在」と創造的理解力が誕生するのです。しかもそういうものだけが幸福をもたらすのです。(P.86)
「自己肯定感を考える」というカテゴリーの、「『創造性の発揮』が究極の課題」という記事において、セラピストであるゲイ・ヘンドリックスの、「人間にくっついている、あらゆる条件づけの影響がなくなった状態に至ってはじめて、人間は本来の創造性を発揮できる」という考え方を紹介しました。
クリシュナムルティは、「創造性」について、「努力をしていないとき、心がすっかり開かれているとき、あらゆる面で真の共感を感じていて、心が完全に一つになっているとき」に現れるものであり、そこにはいかなる闘争もなく、それらはいかなる闘争からも生まれてはこない、と述べています。
人生が「努力」という名の闘い、争いの場になってしまっているがため、その「創造的な瞬間」をイメージしたり、理解したりすることが難しくなっているとも書かれています。つまり、「闘争」から生まれるものを、「創造」と思い込んでいるのですね。
クリシュナムルティも指摘しているように、人間は、「幸福」というよりは、「永続する満足」を求めています。それが「永続する」性質のものかどうかは別にして、「真に満足している人間というのは、あるがままのものを理解し、それに正しい意味を与えている人」という言葉を得た私たちは、「努力」を放棄するという試みを実行するとよいかもしれません。「努力」を伴うことなく…(笑)。
>> 「素朴さ」と「自分らしさ」
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