体育会的自己肯定

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自己肯定l

たとえば引きこもりとか、不登校とか、そういった「社会参加」に困難を抱える人たちに対して、

A.「とにかく、ハードルを大きく越えさせ、自分に自信と強さをもたせよ」という、“戸塚ヨットスクール”的スパルタ式アプローチ(ちなみに戸塚氏は、私の高校の先輩だったりする)
B.無理をさせず、周囲から肯定され、受け入れられる体験から、「自分自身を肯定できる自分」への成長をサポートし、彼ら自身に望む方向を見つけさせるアプローチ

という二つが、サポートの軸の両極であるように思います。

そしてどちらが適切なのか、ということになると、端的に言って、親や子どもの「好み」「価値観」「適性」「指向」によると思います。

私はどちらかというと、親も、通った小中学校も「Aタイプ」でした。「あんな学校で、親で、ホント迷惑したわ」と思うところも多々ありますが、半面、「あのように鍛えてくれたから、あのような環境でも生き抜くことができたから、私は、独立心や強さや問題解決能力、自信を身に付けることができた」とも思うのです。

「体育会的自己肯定」とは、「いつまで、否定される自分に甘んずるのか、自分を否定する自分に甘んずるのか」という、「否定」に対する「屈辱」や「不燃焼感」を起爆剤とし、ギリギリのところで意思決定し、「火事場の馬鹿力」で山にトンネルを開けさせる「結果・自己肯定」。「結果・自己肯定」に至れぬ場合、そのプロセスは単なる「しごき」「いじめ」「攻撃」に過ぎず、壁を越えられなかった人たちに、意味のない傷を増やすだけ、という危険をはらんでいます。

耐性や適性に欠ける場合、そしてタイミングが不適切な場合、「Aタイプ」では若者が潰れてしまう。でも「必死になれば、自分にはコレくらいの力が出せる」という、飛躍的体験の機会は、「Aタイプ」の方が多いと思います。そういう場を、人為的に設けるためです。「Bタイプ」の場合は、「必死になる機会」と「その機会に取り組む、当人としての必然性」が、自然に訪れるのを待つしかありません。

私が思うには、親が「Aタイプ」の経験者(体育会出身、ビジネス社会で幾多の困難を乗り越え、そんな自分が好き、等)で、そのプロセスや成果に満足しているのであれば「Aタイプ」を好み、「Aタイプ」に嫌悪感がある、穏やかで安全そうな道を選びたい、「Aタイプ」では状況が悪くなる一方と思えば「Bタイプ」を選ぶ。

また、「指向」ということでいえば、親はいつか死に、残された子どもは、いずれ自立せねばならないのだから、とにかく「社会」で生きていけるようになって欲しいという「社会指向」ならば「Aタイプ」、「社会」で生きていけるようになるかどうかは分からないが、まずは子ども自身のペースで、自身の可能性や能力、輝きに気づいていって欲しいという「個人指向」ならば「Bタイプ」、そんな振り分けになるのかな、と感じます。

新聞などが、引きこもりや不登校に対する行政のサポートのまずさを指摘することはあっても、彼らを雇用することはないのと同じで、社会に置き去りにされた人々を距離を置いて温かく見守ることはあっても、経済や効率、利害・競争の絡む、ビジネスのメインストリームに彼らを、とはならないのが現状。もちろん、仕事にはメインストリーム以外の領域も沢山あるし、当事者たちも、競争の激しいところに入っていくことなど望んではいないのかもしれません。「Aタイプ」であれ、「Bタイプ」であれ、「温かい目」を超えた、お互いへの確かな敬意に至ることができるならば、どちらのやり方がいいとか悪いとか、一概には言えない気がします。

>> 自己肯定と自己否定