存在感覚の欠損

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自己肯定n

「他者を傷つけたり殺めたりするという行為におよぶこと自体が、存在感覚に欠損があったことを告げているということです。他者を傷つけたり害したりしたいという感情や衝動には、まず間違いなく自己否定感が伴っています。常に自己否定感につきまとわれている状態、自分という存在が自力で修復できないくらいに傷ついている状態が、暴力の発生の基盤です。暴力行為は深い傷や欠如をかかえた存在感覚の表出そのものなのです。
そして根本的に重要なことは、子どもがかかえてしまう存在感覚の欠損のほとんどは、受けとめられ体験の欠如、すなわち受けとめ手の不在、さらにはさせられ体験の過剰、飽和がもたらしたものだということです。」(「家族という暴力」より)

要約すると、
☆他者を害したい情動は自己否定感からやってくる。
☆存在感覚の欠損とは、自分という存在が自力で修復できないくらいに傷ついていること。
☆存在感覚の欠損のほとんどは、「受けとめられ体験の欠如(受けとめ手の不在)」「させられ体験の過剰・飽和」によってもたらされる。

私は同書の、「遊びを奪うという暴力」という章を、非常に興味深く感じています。

著者が書いているように、この章の結論は
子どもたちから、「遊びを奪うこと自体が暴力であり、広い意味での虐待である」ということ。恐らく、大人たちの多くは、自分たちが子どもから遊びを奪っているとは思っていないのではないでしょうか。「遊び」に関する記述を読むと、「受けとめられ体験」が圧倒的に欠如し、「させられ体験」が過剰であった私が、リカバリー不能なまでには「他者を害する」方向に行かずに済んだのは、私の親が、私から遊びを奪うことをしなかったためではないか思うのです。

与えられた遊びをするのではなく、自分たちで遊びを考え出し、勝手に何かをおもちゃに見立て、自治のもとに自由に遊ぶ、私にはそれがありました。

なぜかその部分だけは、徹底して、私にはあったのです。なんと幸いなことでありましょうか。

同書が指摘しているように、現在の子どもたちの多くは、大人の管理下で遊ぶ枠組みに組み込まれている。野球だ、サッカーだと、スポーツをするにしても、道具を既製品で親が揃え、グラウンドも親たちが確保し、練習や試合の段取りも親が行い、子どもは野球やサッカーをするだけ。そこには、「遊びの要素」である、「遊びをつくる過程がない」と著者は述べています。

現在、おもちゃとは、親が買って与える既製品を指します。

「幼少期からの母親の養育態度を通して伝わってくるのは、子どものそのときどきのまるごとを受け止める姿勢の欠如です。子どもの側からみると、受けとめられ体験よりさきに、させられ体験ばかりが あったのです。すなわち少年はひたすら母親の不安にもとづく特訓や指導を受け入れるよう要求されつづけてきたのです。」

「少年の母親にとっても、受けとめ手がいなかったのではないでしょうか。夫は妻の母親としての苦悩をわかちもつという姿勢を示したのか、とても気になるところです。推測的にいえば、母親には《母》という受けとめ手になるために不可欠な受けとめ手がいなかった。ことによったら彼女自身、子ども期に母親に存分に受けとめられたという受けとめられ体験が欠如していたのかもしれません。」(「家族という暴力」より)

こういう文章を読むと、私の母にもまた、「受けとめられ体験」が欠如していたのかもしれないと思います。人間は、普通に社会生活を送っていたとしても、奇異な行動を取ることがあります。私の母は9人という大人数の兄弟姉妹の真ん中の子どもでした。上の子たち、下の子たちに比較して、親から、あまり気にかけてもらえなかった、という思いがあったようです。

それだけならば、とりたてて珍しい話でもありません。奇異とは、あまりにも自分の両親に対する思いが強かった、ということです。モノへの執着も強かった。母は嫁に行った立場であり、婿を取ったわけではありません。しかし、私の実家には、母方の祖父母の大きな遺影が飾られていてました。父方の祖父母の遺影を掲げることは、母がイヤがって許しませんでした。自分の両親だけが、彼女が敬愛し、仰ぎ見る存在だったのです。嫁いだ家のお墓には入らない。自分の両親のお墓に自分も入る、と言い張っていました(幼児性も強かったんでしょうね)。

舅・姑との確執などがあったのかもしれませんが、異様なものは異様です。モノへの執着というと、今は40歳になろうという弟の幼稚園の制服、おもちゃ、描いた絵など、「何の意味があろう」というようなものを、どっさりと屋根裏に保存していました。友人・知人が亡くなると、「遺品」をいろいろともらってきていました。祖父母の家の写真、そこにあった水差しなど、「おばあちゃんの家にあったものだから、大切に保存しなさい」と私のところに、宅急便で送ってきました。

私は、「モノは、モノであって、その人やその時の体験や思い出とはまったく違うもの。変なものをいろんなところから収集するのはやめて欲しい」と思っていたのですが、「受けとめられ体験」の欠如の代償行為として、写真やモノや関係に執着していたのかと思うと、腑に落ちます。

>> 「自分であること」への自足