トップ > 「自己肯定感」を考える (記事一覧) > 「自分であること」への自足
「家族という暴力」において、著者芹沢俊介氏は、ジョン・ボウルヴィの愛着理論を用い、「受けとめ手《母》」と「愛着対象を奪うという虐待」について、スピルバーグの“A.I.”という映画を例に、解説しています。 まずは愛着行動からみた、「母になるとはどういうことか」。@⇒Bを経るとしています。 @子どもが向けてくる愛着行動の受けとめ手になること。 A愛着行動を無条件で受けとめるということを繰り返すうちに、愛着関係は自然に愛情関係へと転換するということ。甘えは、このプロセスにおいて起こる、特定の人に向けた子どもの欲求行為、欲求表出である。 Bこの過程の仕上げとして、愛着行動を表出する子どもの唯一でかつ永久的な受けとめ手になることを選択すること。そしてこの選択が後戻り不能(リセット不能)な選択であることを自覚すること。これが母性から母への踏み出しである。 Bに至ったにも関わらず、その関係が断ち切られる場合、著者は、「愛着関係、愛情関係を一度結んでおきながら、それを断ち切っていく虐待」と表現しています。 そして子どもの側からみた、「母性体験の剥奪」を、次のように整理しています。 @母を失った。 A愛情対象、甘え手を失った。 B愛着対象(=愛着行動の受けとめ手)を失った。 C子どもは、その母を、唯一の愛着対象とすることを刷り込まれたままである。 @〜Cのような状況は、子どもに大きな「存在感覚の欠損」をもたらすため、それを<家族という暴力>と表現することができる。 そして、母との関係を再構築しない限り、自分を成熟へ向けて前進させることができない、人は自分のなかの愛(母という他者の存在への信頼)が感じられてはじめて、自分を自分と感じることができ、自分であることに自足できる、と著者は述べています。 このように読み進めていくと、私自身を振り返り、「意図的に母親から母性体験を剥奪されながらも、よくぞここまで成長したものだ、偉いぞ!自分!」と思うのですけれど(笑)、「私の母」が「受けとめ手」にできなかった母(私から言うと祖母)や父が、私の「受けとめ手」であってくれたことに気づくと同時に、そういった環境に溢れんばかりの感謝が湧いてきます。 実際のところ、母は私を、母なりにたくさん愛してくれたと思うのですが、私は自分の母が、長い間、あまり好きではありませでした(「あまり好きではない」とは、これといった情動を伴わない判断です。自分のなかに、母に対する憤怒・憎悪を蓄積していた時期は、むしろ「尊敬している」とか「大好き」とか言っていました。ニュートラルな目で、総合的に判断して「あまり好きではない」という時期を経て、母を愛することができるようになりました。ひょっとして憎むこと、嫌うことに疲れちゃったのかも、ですが、「好き-嫌い」がどうでもよくなったというか、それとは別次元の状態に至ったようです)。 さて、「家族という暴力」において、もうひとつ面白いのは、映画において「人工知能を組み込んだロボット(子ども)」が手放さないテディベアの話です。 テディベアは、このロボットのディビッドにとって、母と同様の価値をもつ愛着対象であり、彼の「存在感覚」、つまり<ある>の安心と安定を役割を果たしている、つまり母の乳房である、と書かれています。 私にとっての、愛着対象は「テディベア」ではなく、「タオルケット」でした。しかも、結婚するまで、という長い期間にわたってです! 同書には「愛着関係が欠如したままでは、人は成熟することができません。愛着対象の再発見と、愛着行動を受けとめてもらうことを通して、子どもは自分の存在を自分として感じることができるようになります。また存在感覚に欠如を覚えたままでは、人は平和裏に死ぬこともできないのです。」 とありまして、あまり考えたことがなかったのですが、ひょっとしたら夫が、私の「受けとめ手」になっていってくれたのかも、と思います。あるいは、自分が自分の「受けとめ手」になるということを、少しずつ模索しだした時期が、結婚のタイミングと合致したとも考えられます(同書では、他者による「受け止められ体験」が、存在感覚が健全であるために必須であるかのように書かれていますが、実際には、自分が自分の受けとめ手になることで、それらの問題解消は可能と、私は考えています。ただ一般的には、他者による「受け止められ体験」によるそれの方が、得られ易い支えであるといえるでしょう)。 また、前項でも若干触れたように、物品への執着が強かった(愛着をもっている人物に関わる物品を手元に集めたがる)私の母のことを思うと、それは彼女の満たされることのなかった愛着行動の一表出であった、ともいえそうです(幼い子どもにとっては、部分は全体と同じであるようですね)。 >> 「現実を見ない親たち」というエピローグ