「現実を見ない親たち」というエピローグ

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私の主たる職業は「マーケティングリサーチャー」あるいは「アナリスト」です。仕事でお世話になっている企業の書棚に発見した本をお借りしました。3冊のシリーズのようですが、細かな表現に気になるところがあるものの、なかなか面白い。

最も面白かったのは、「普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓」という書籍の、「エピローグ 現実を見ない親たち」。エピローグが一番面白い、という点が面白いですね。

「細かな表現」については、著者のなかに「母親としてのあるべき姿」が予めあって、それをベースに調査結果を見ているように感じられるところが惜しいと思います。

私自身は、食卓の話はともかく、エピローグにおける次の部分を興味深く感じました。

「普通の本は、ここで終わる。だが、実はここまで一度も触れていない重要な問題がひとつ残っている。データを見た当初からずっと私の心の中に引っかかっていたことである。それは事実とはまったく異なることを述べ、自らの現実とはかけ離れた考えや将来の展望を堂々と語る主婦たちのことである」
普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓」(P.205)

私も調査をいろいろと手がけてきているので、こういう人がいるのは知っています。「言っている」から「やっている」のかと思えば、そうでもない。「やっていない」のに、なぜ「しているかのように語る」のか、そのギャップをつなぐものが見えてこない。「本音」と「タテマエ」と言えなくもないですが、この手の人は「母親」とか「主婦」とかでなくてもいます。要因はいろいろあると思いますが、私自身は、そのギャップがなぜ生まれるか、について、実務上あまりフォーカスしたことがありません。

「言っていること」よりも、「していること」を「真実に近いもの」として重視し、分析するだけです。矛盾を突けば、発言を修正する人も出てきますが、嘘をついているという意識の人は、まずいません。

それはそれとして…。事例を本文から引用しないと、イメージが湧かないであろう、ということで、短めのものをここに引いてみましょう。

「こんな主婦<46歳>もいた。『私はクリスマスでエネルギーが尽きちゃうから、もう十年以上御節など一切作ったことがなくて、毎年暮れから旅行に行っちゃうんです。御節は旅行の帰りに、夫の実家によって、私と違ってエネルギーのある義姉(50代)や義母(80代)たちが作ったものを食べ、全部貰ってくることにしているんです』とインタビューで語った主婦である。子供はもう18歳と15歳になる女の子だ。夫<55歳>は昔からの味の雑煮を食べたがるが彼女は作らないため、『主人はいまだに自分の実家に行くと『お雑煮を食べさせて』って言うんですよ』と笑う。だが、正月などの伝統行事の伝えについて考えを尋ねると、『ウチの娘たちがこれからの日本の伝統を築いていくので、私はそれを伝えていく責任の重さをすごく感じています。だから、母のやったことを私はいま全部リピートしている気がするんです。今の時代、こうしてあえて意識して、意識して、努力して伝えていかないと伝統は守れない気がするんです。周りの人たちを見ていて、私はすごい危機感を持っています』と熱く語る。(中略)語られることと実際に行われていることが、違いすぎるのである。」(P.206〜208)

同書の問題意識は、次の部分に集約されるのではないかと思います。

「そんな母親は、目の前にいる子供の現実をきちんと見つめているのだろうか。そして子供の現実とはかけ離れた夢や展望を描いたりはしていないだろうか、自分の日常は棚に上げて異なる理想を語ったりしていないだろうか、とも思うのである。『現実に目覚めた子供とはどう対峙していいかわからない』とか『子供にはずっと夢に浸っているような気持ちを失わないでいてほしい』などと主婦が言っていたことを思い出す。中高生になる子供に『現実』より『夢』を見続けさせたがる母親たちは、自分自身もその現実を正しく見つめない人であったのかもしれない。もしそうであるならば、そこにいる子供にとっては非常に残酷で恐ろしいことではないかと思う。真っ当に受け止める子供ほど辛く感じるに違いない。そしてなによりも、そこにいる子供たちは、現実をどのように認識していったらよいかわからなくなり、自分の立ち位置や判断基準も見失ってしまいそうな気がする。そんな子供たちが、やり場のない怒りや言葉にならないイライラを募らせ、ある日耐え切れなくなって、家の中で暴力をふるったり自分を見失うようなことがあったとしても、私たちはそれを『不可解なこと』とは言えないと思う。この『普通の家族』の、『普通の主婦』たちの調査データを詳細に読めば読むほど、私はそんな胸騒ぎがしてくるのである。」(P.215)

「等身大の自分」「あるがままの自分」、それらを肯定する(肯定できている)のであれば、「こう言っておくのが世間並みで正解」ということに囚われる必要がありません。それを指摘していると解釈するならば、同書は、特に「母」という役割にある人たちの、「自己肯定感」の脆弱さについて、食卓という切り口からアプローチしたものと考えられます。

「言っていること」と「していること」にギャップのある親は、子どもにとっての失望の種です。尊敬の念も湧きません。ただし、元子どもの私が思うに、特に小さな子どものうちは、「自分の母」と「他所の母」を客観的に比較できる状況で暮らしていません。親が言っていると、「そんなものか」と思い、そう言っている以上、「これはしているうちに入るのだろう」と思うものです。

>> 「仮想的有能感」という視点