「自己受容」あっての「自己否定」
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このホームページでは、メニューのなかでも、特に[3つのテーマ]については、書籍の紹介を基本としています。一部、書籍とは関係なく書いた記事もありますが、これはそれにあたります。
より厳密に言うと、「私の思うところ」ではなく、ある方の講話のなかに、すごく感じるところがありまして、そのお話を紹介したい、というものです。
☆ 「自己否定」を、「自己否定」という言葉から考えてはいけない。そのときどき、その段階での「自己否定」があるので、究極の「自己否定」というものに対し、それと通じる部分があったとしても、それぞれの「自己否定」の内容や質が違っている。
☆ 自分のなかにいる「お母さんとしての自分(※インナーアダルト)」は、いろいろな「子ども(※インナーチャイルド)」がいるなかで、自分にとって、好ましい子を選んで「よしよし」する。好ましくない子は、脇に押しやろうとする。しかし、その子たちはいなくなるのではなくて、背後から「お母さん」を操り続ける。
☆ 自分のなかにある、受容できない正体不明のものを問いつめてはいけない。受容しがたい「子ども」を引き寄せて「よしよし」していると、言えなかったことを、「子ども」側から言うようになる。
☆ (※いじめの例を挙げ)いじめられて惨めだった過去の自分(「子ども」)を、自分(「お母さん」)が受容しない限り、いじめた相手を許すことはできない。いじめた相手に対する憎しみと、自分の味わった惨めさは、分かちがたいものであり、「両者があってひとつ」だからだ。片方だけが許される、受容されるということはない。
よく「自分を愛することができない人は、他者を愛せない」とか、「自分を受け入れられない人は、他者を受容できない」とかと聞きますが、その原理が明確に語られることは、ほとんどないように、私は感じております。そのように言われれば、曖昧な文脈のなかに生きる日本人的習性により、「何となくそんな気がする」というだけのことだったのです。「自分のことすら、できない人間に、他人のことをどうこう言ったり、したりする権利はない」というのの“親戚みたいなもの”だと思っていたところもありました。
しかし、「相手に対する憎しみと、自分の味わった惨めさは、分かちがたいものであり、両者があってひとつである」ために、その片方のみを受容したり、許したり、手放したりすることは 『原理的に不可能である』 という説明は、ストンと私の腑に落ちました。ちなみに講話をされた方が、『原理的に不可能である』 とおっしゃったわけではありません。
「相手は許せるが、そのときの自分を受け入れられない」とか、「自分を『よしよし』することはできても、相手を受け入ることができない」ということは、本来ないということなのではないかと思います。真の意味で「相手を許せている」ならば、許せなかった相手への思いと一体化している自分の感情や傷を「受容できている」はずだし、「自分を心から受け入れること」ができているならば、相手への許しもまた完遂されている、ということです。
☆ 自分を受容したり、愛したりすることは、「自己否定」と決して矛盾しない。
☆ 「自己否定」されていないと、心のなかの「お母さん」が、見たくないがゆえに脇に押しやった「子どもたち」に操られ、振り回される。溺れる子どもを助けるつもりで、自分も溺れてしまうということが起こる。
☆ 自分のなかの見たくない自分(好ましくない「子どもたち」)を、自分のところに引き寄せて「よしよし」している状態は、「お母さん」が自分を捨てて、「子ども」になりきろうとしているのであり、それを「自己否定」と言う。そのときに、「お母さん」は、「子どもたち」から、ある程度まで自由になっているから、自分を捨てて、寄り添える、なりきれる、「子ども」を理解できる。
☆ 「お母さん」が「子どもたち」から自由になって、理解し、寄り添い、受容する状態が進んでいくと、「子どもたち」と「お母さん」の間にある、互いを縛り合うことで成立している「私」という感覚(「自我」)が、その役割を失い、解体していく。
☆ 心には、何ひとつとして実体がない。「私」だと思っている意識も、「子どもたち」を鎮めてやると、「お母さん」そのものまでが消えてしまう。そのようにして「自己否定」は起こっていく。
非常に明快なご講話です。
インナーチャイルドという言葉を知っている人は少なくないですし、「傷ついたチャイルドを癒す」ことの大切さを指摘する人は沢山いますが、このような視点(仏教哲学的視点)から、インナーアダルトとインナーチャイルドの関係を語った人は珍しい(あくまで私の経験において、です)。
あー、すっきりした。よく眠れそうです。
>> 「受け入れる」という選択、「受け入れない」という選択
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