「人間関係」のレッスン

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自己肯定t

「全体性や完全性は自己の内部から生まれるものでなければならない。だれかとくべつな人を見つけることは、親密な人間関係にかかわる問題の解決にはならない。仕事に満足することにも、収入をふやすことにも、学校の成績をあげることにも、近隣の環境や市民ホールを改善することにも役立たない。独身で不幸な人は結婚しても不幸なのだ。専門職につけない人は、とくべつな人をみつけてもパートナーのいる専門職につけない人にしかなれない。親としても能力が欠けた人は、結婚しても親としての能力が欠けたままだ。そして、だれかとくべつな人がいなければ自分は無価値な存在だと感じている人は、その人との関係のなかでも、いずれは無価値性が外にあらわれる。あなたがもとめている全体性や完全性はあなたの内部にあって、発見されるのを待っているのだ。」(「ライフ・レッスン」より)

家族などの近い関係にある人たちに対して、不満を感じることがあります。私にも、多々あります(笑)。

「こんな親でなければ、私はもっと幸せだったのに」、「夫がもっとこういう人であったなら、私はもっと満たされていただろうに」などと思ったところで、近い間柄であるだけに、「不満だから」と、その関係から逃れることもできません。だからといって相手を変えることもできず (自分の思うような相手に変わってくれるとしたら、そんなラクなことはないのです)、関係を悪くしたくないという思いから、本当に言いたいことを呑み込むことも数知れず…。

ライフ・レッスン」の著者たち (終末医療の臨床現場に携わる精神科医 & スペシャリスト) は、なかなか手厳しいことをおっしゃっています。

「それどころか、宇宙が送りとどけてくるのは、自分にはとても愛せそうもない人たちかもしれない。その人を愛とに苦闘しているうちに、いつのまにか自分がもっと愛される人間になる機会がおとずれる。親密な関係にある相手がだれよりも気に入らない存在になるということはよくあるが、気に入らない言動をするその相手こそが、じつは自分が必要としている人であることが多いのだ。なぜなら、『こまった』人、『つまらない』人こそが、しばしば最高の師になりうるからである。」(P.97)

「人間関係のなかでくりひろげられる状況のひとつひとつが、そのときに必要な、学ぶべきレッスンをもたらしてくれる。わたしたちは激流のなかの甌穴に入り込んだ岩石のように、関係のなかで荒い角を磨いている。
人間関係のある部分が変われば幸福になるのにとおもうことがある。そうおもうのは、自分を幸福にしてくれる関係を望んでいるからだ。だから、相手を、または関係を変えることがでたら、相手も完全な人間になり、自分も幸福になるとかんがえる。でも、それはたわごとにすぎない。
幸福は関係が『よりよい』方向に変わることから生まれるわけではない。」(P.89〜90)

大きな視点でみると、人間関係においては、「相手が悪い」ということもなければ、「自分が悪い」ということもないのだということだろうと思います。

相手との関係を通して、自分のなかの“癒されるべきポイント”が分かり、そこにアプローチすることで、自分のなかの「完全性」や「全体性」が、姿を徐々に現すようになる、ひいては、その「完全性」や「全体性」に自分の“生”の主軸が移ったとき、相手を変えようとしなくても、自分はおのずと「愛を受ける存在」になっている、ということかもしれません。

「人がうまくいかない人間関係のなかにとどま理由はふたつある。ひとつは相手が変わることを期待しているから、もうひとつはどんな関係でもきっとうまくいくはずだと教えられてきたからだ。」(P.102〜103)

同書を読んでいて、わかりにくいのが上記の節です。他人を変えようとせずに、他人を鏡として、自分のなかの刷り込み(設定)を書き換え、自分のなかの「完全性」と「全体性」に気づいていくことで、「他人がどうあろうとも、愛を受けている自分」に気づくようになる、「幸せ」という状態を知ることができる、と言っているように感じられる一方で、うまくいかない人間関係に執着することはない、とも述べていて、一見すると矛盾しているようにみえます。

恐らく、自分のなかの「完全性」「全体性」とともにあるときは、人間関係がうまくいっていようといなかろうと、「愛」と「幸せ」を感じることができるものであり、うまく行かない人間関係が改善されることを期待して、その関係にとどまるのは、自分の包含する「全体性」と「完全性」に気づいていないからである、ということを言っているのではないかと私は思うのですが、いかがなものでしょうか。

>> 「人間関係」の失敗