「罪悪感」との和解

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自己肯定v

「罪悪感という心理は自己の判断に根ざしている。自分がなにかわるいことをしてしまったという意識である。それは自己の信念体系に抵触したと感じたときに生じる、内側にむかう怒りである。多くのばあい、この不幸な判断の基準は、幼児期にうけた教育によって形成されたものだ。」(「ライフ・レッスン」P.106)

「罪悪感」というのは、非常に罪深いメカニズムであると感じます。

たとえば、何か自分が失敗をしたと思うとき、「なすべきこと」を故意に、偶発的にしなかったとき、「私は悪いことをした」、「○○に対して、罪深いことをしてしまった」と胸を痛めます。

そしてまた、自分が勝手に設けた基準から外れた行動やふるまいをする他者に対し、彼らの罪悪感を刺激するような物言いや態度をとることもできます(するかしないかは、個人の選択)。

「自分は、なんという取り返しのつかないことをしてしまったんだ」と、相手に感じさせることによって、彼らを加害者に仕立てることができるので(自分は被害者の位置に立つことができるので)、相手の「罪悪感」に訴えることは、自分の立場を正当化するために、ときに有効です。

つまり、自分も「罪悪感」という底なし沼に落ちることができるし、他者を意図的に陥れることもできる、ということになります。これを「罪深いメカニズム」と呼ばずして、なんと表現すればよいのでしょうか。

「罪悪感は許せない気もち、恥じる気もちといった、その人のもっともよわい部分と結びついている。全体のなかではごく小さなその部分が罪悪感を育み、それを放置することが罪悪感に栄養をあたえている。罪悪感をもつと人は狭量になり、低次の思考ばかりが活発になる。(中略)恥辱と罪悪感とはつよく結ばれている。恥辱は過去の罪悪感から生まれる。罪悪感は過去の自分に、恥辱は現在の自分に感じるものである。」(「ライフ・レッスン」P.175)

同書の著者たちは
「本当に悪い人であるならば、罪悪感などもたないものである。なので、自分が罪悪感をもったときには、自分の中の最良の部分に目を向けるようにするとよい」
という趣旨のことを述べています。

そして罪悪感を感じたとき、人というのは無意識のうちに、そのつらさから逃れるために、その感情を他者に投影し、
「悪いのは自分であるはずがない。悪いのはお前だ。お前が罪悪感をもつべきだ(あるいは『反省せよ』)」
というパターンに陥りがちであると指摘。

確かに、親子の間、夫婦の間での、「私は悪くない、あなたが悪い」というやりとりは、私にも経験があります。そういうバターンに陥る背景には、「物事は、きちんと考えて、段取りを踏んでいけば、上手く運ぶはずである」と思い込む傾向もまた、存在しているのではないでしょうか。

つまり過剰なコントロール欲求、状況や他者に対するコントロール能力の過信があるように思います。何がどのようになるか、何がどのように起こっていくかは、実は我々が、完全に、確実に予測できる範囲のことではないのですが、その限界を忘れて、自らを過信してしまうことがあります。ゆえに、思い通りに物事が運ばないときには、自分の何か、どこかに落ち度があってそうなったように思い、罪悪感をもつのではないか、と私は推察します。

もうひとつ、著者たちは興味深いことを述べています。
「罪悪感はつねに過去から生じ、人を過去に生きつづけさせるものである。罪悪感とは、現在というリアリティをみないようにするための方法なのだ。それは過去を未来にまでひきずっていく。過去の罪が未来の罪をつくりだす。罪悪感を手放したとき、人ははじめて過去を手放すことができ、あらたしい未来を創造することができるようになる。」 (「ライフ・レッスン」P.182)

「自己肯定の状態」とは、表現を換えると「今の自分を受け入れていること」。つまり、「過去」や「罪悪感」と和解している状態といえるのではないでしょうか。

>> 以下、続く