子どもにとって、母親は「心の基地」

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自己肯定e

みなさんは、子どもの頃、親とのスキンシップが、どの程度ありましたか?

私は、小学校高学年くらいまでは、父親とは、その膝に乗ったり、じゃれ合ったりして遊んだ記憶がありますが、母親との間には、触れ合いが少なかったと思います。

お母さんに抱きしめてもらいたくて、寄っていっても、「止めなさい」「あっちへ行きなさい」と、イヤな顔をされていました。

母は、私を「自立した女性」に育てたがっていたため、小学校に上がる前から、スキンシップに限らず、甘えさせてもらった記憶がないのです。

そんな私ゆえ、「ほめる、叱る、言葉をかける自己肯定感の育て方」に書かれている、“母子のスキンシップ”については、大変共感を覚えました。「ウチのお母さんが、こういうお母さんだったら、よかったのにな」という気分です。

(P.56〜57)
子どもが友だちと遊べないで戻ってくると、「向こうに行って遊びなさい」と言うお母さんがいますが、子どもが戻ってきたら瞬間でいいから子どもをきゅっと抱きしめてあげると、また安心して友だちの方に行けるようになります。
つまり、子どもにとってお母さんは心の基地のようなものですから、友だちと楽しく遊んでいても、ちょっと淋しくなるとお母さんのところに来て、安心できるとまた出て行く、そういうことを繰り返しているうちに、だんだんお母さんのところに来る時間が短くなって、自立していくのです。
お母さんのもとに来たときに拒否すると自立が遅れます。


「心の基地」であるお母さんから、ぬくもりを得られず、たとえばモノなどで代替されてしまうと、
「自分が欲しかったのは、親のぬくもりなのだ」
ということに、子どもが気づくことができなくなり、“本当に欲しいもの”が得られないことへの苛立ちから、“わがまま”になることもあるようです。

ちなみに私は、モノを与えられることもなかったためか、“わがまま”にはなりませんでしたが (でも、多少は“わがまま”かな?)、「表向きは“親孝行なよい娘”、でも心のなかは、母への憎しみで溢れんばかり」な大人に育ちました。

母は既に他界し、母との関係も、いろんなワークやプロセスを経て、消化されてきているので、ここに、気楽に書いていますが、私は、「お母さんのもとに行ったときに、ことごとく拒否されてきた」子どもです。

同書にも書かれていますが、スキンシップ、甘えを受け入れることは、すなわち“子どもを受け入れること”。「自己肯定感」 のベースは、幼児期に作られることから、親をはじめとして、周囲の大人たちは、子どもがすくすくと育っていくことのできる、豊かな土壌でありたいものです。

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