クリシュナムルティの語る「信念」
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「そのようにしてそれぞれの信念をもった『あなた』と『私』が自己を主張しあっているのです。それなのに、私達はお互いに愛や、平和や、人類の統一とか、共同体ということを口にしているのです。(中略)私たちは信念という壁をいくつも作ることによって、内面的、精神的に安全でありたいと望むのですが、この壁そのものが無事でありたいという切望の兆候にほかならないのです。(中略)もし私たちがそうしたものすべてから解放されていなければ、私たち自身が闘争の根源となるのです。従って私たちには和解の気持ちもなく、心に愛がないということになります。信念は破壊者です」
「それではどうすれば精神は信念から自由になることができるでしょうか。それは次のようなときにのみ可能になります。それはあなたを信念にすがりつかせている原因や、あなたを信じさせている意識的及び無意識的な動機の内面の本質について、あなたが理解したときなのです」
「自我の終焉―絶対自由への道 」より。
クリシュナムルティの本は、私が20代だった頃、かなり真剣に読みました。
彼の述べていることをみると、この世的に「是」とされていること(例えば「信念をもつ」「努力する」「自分ではない者になろうとする」「社会を変革する」といったこと)が、いかに人と人とを分離し、あるがまま、真理の理解から我々を遠ざけるかが分かります(実際には、難解なので、とっても分かりにくいんですが)。
寄りかかるものを求める自分の精神の働きの虚偽を、あるがままに一瞬でも見つめると、心のなかに、驚くべきことが起こり、無意識が反応し、意識的な心の抵抗を押しのけると言っています。それが、私たちをして「変容」に至らしめるのです。
それくらい、私たちの精神は、上手なウソを自分自身につく、ということでしょう。
「信念の強い人」という表現は、今の世の中においては「褒め言葉」です。ただ、信念は「真実」ではない、もちろん「真理」ではない、刻一刻と変化する「あるがまま」を敏捷にとらえる柔軟性を失った「鋳型」であり、「手かせ足かせ」であり、人と人、社会を分断し、理解・共感から遠ざけるものである、ということではないかと思っています。似たような信念をもつ人たち同士は上手くいくのかもしれませんが、それも一時的なものですし、大抵は主導権争いに転ずるため、どちらかがどちらかに追従するほかなく、それがイヤなら、そこから人々は去って行く、というパターンになります。結局のところ、「自分が正しい」ということを、言い合う集団なのですから。あるのは、主張が集団の外に向かうのか、内部で起こるのか、その違いだけです。
クリシュナムルティの本は、自分のなかに明晰さと柔らかい心があるときには、すごくストレートに心に入ります。
彼が指摘するようなあり方ができたとき、ものすごく「すがすがしい」というか、「生き生きとした」瞬間の体験がもたらされます。
>> クリシュナムルティの語る「自我」
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