他者の批評

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共生n

「もしあなたが自分の子供に関心があれば、あなたは子供をどのように理解するでしょうか。あなたは観察するのではないでしょうか。あなたは子供が遊んでいるのを見守り、子供の気持ちが変化したときに子供を研究するのです。あなたは自分の意見を子供に言ったりはしません。またこうすべきだとか、ああすべきだとも言いません。あなたは油断なく観察し、注意深く見つめているのではないでしょうか。恐らくそういうときに、あなたは子供を理解し始めているのです。もしあなたが子供を絶えず批評したり、あなた自身の特殊な性格や個性を彼に注入したり、子供のとるべき行動を決定したりするなら、あなたは確実にその関係の中に障壁を作ってしまうのです」

「不幸なことに私たちはたいてい、何かを形成したり、干渉するために批評しているのです。何かを形成すること ― たとえば夫や子供との関係を形成することは、私たちにある種の喜びや満足を与えてくれるものなのです。あなたはその中で権力の意識を味わうのです。あなたがボスであり、そこには強烈な満足感が伴っているのです」

「明らかに、このようなプロセスの中には関係についての理解はないのです。そこには他の人間を、あなたの個性や欲求や願望に基づく特殊な型にはめ込もうという欲望と押しつけがあるに過ぎません」

自我の終焉―絶対自由への道」より。


10代半ば〜20代後半の私(つまり、クリシュナムルティに出会うまでの私)は「批評好き」でした。

ひとつには、「人とはこうあるべき」とか、「こういうときに、こうしない人はどこかおかしい」というように、自分のなかに「基準」をもっていて、それに適合しているかしていないか、にすごく関心があったからです。他人への理解ではなく、自分が満たされることにばかり、気持ちが向いていました。他人から、受容されることに飢えていた時期でもあり、自我ばかりが強く、ゆとりを持ち合わせていなかったのです。

自分の基準には正当性があると思いこんでいる一方で、世の人たちは、私を満足させるために生きているわけではないため、私は他人の行為や発言に、繰り返し、不愉快を感じていました。そして、その不愉快を上手く消化できないとき、鬱憤晴らしのための「他者批評」を繰り広げていたのです。

ある時期、私は確かに「批評好き」でしたが、思い起こしてみると、子供の頃を含め、それ以外の時期の私は「他人の悪口」「他人の噂話」というものが嫌いでした。その点で、同じ人物でありながら、時期により対照的な顔をもっていた、ということになります。一体何が違っていたのだろう、と考えてみると、他人のなかに、自分を受け入れてくれる愛を探していた時期は、とてもシニカルな人間でした。自分のなかに、多かれ少なかれ、自分を愛するスペースがあったとき、私は「他人の批評・悪口・ゴシップ」には関心がなかったのです。

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