「その思想家は『デモに出てても第三者、昼寝してても第二者』といったのです。これはデモに出てどんなに警官隊と激しく揉み合っても、つまり行動しても、かならずしもほんとうにつらくきつい状況に追い詰められている人に寄り添うことができるとはかぎらないのであり、逆に昼寝していたってほんとうにつらくきつい状況の人たちに寄り添うことができるのだという意味です。」
「虐待防止という目的にたいしても、同じことを申し上げてみたい。狭義の虐待だけに焦点をしぼって、発見・介入というかたちで対応すること、行動することが虐待防止に役立つ唯一の道だというのは錯覚にすぎない。虐待に関心をもつ人がひとりでも増え、その人たちが虐待防止に立ち上がれば、虐待はなくせるという発想は根本的に間違っているのです。虐待はそんなふうにわたしたちの外にある問題ではないのです。」
「虐待が自分の外にあるとみなすとき、虐待防止への取り組みは、正義の行動になってしまいがちです。正義の行動になってしまうと、それは自己満足的になってしまう。運動がもつもっとも危うい側面です。」
「自分のなかの暴力の根について突き詰め、他人事でないと考える、そのことだけで、虐待に苦しむ子どもたちとつながり、寄り添うことができる。虐待をしてしまって苦しんでいる親、大人たちとつながり、寄り添うことができる。どうしてでしょうか?虐待者に対して対立的でなくなるからです。自分もまた虐待をしてしまいかねない暴力性を内部にはらんでいるという発見や自覚は、虐待者とつながるための最小限の必要条件です。」(「家族という暴力 」より)
同書が指摘するように、「虐待」が定義され、共通認識となり、それを防ぐためのガイドラインが用意されても、「虐待」はなくなりません。正確な統計資料をもっていませんが、多分、「虐待」はなくなるどころか、減ってもいません。アメリカがよい例です。
子どもが自転車に乗る際、ヘルメットを着用させないのは「虐待」、子どもが外に遊びに出るとき、送り迎えやアテンドをしないのは「虐待」…。定義や規制(罰則)をテンコ盛りにしたところで、「虐待」は減っていない模様です。
「虐待」とは、自分の外(つまり現時点での当事者のみ)に存在している現象で、その現象を外から啓発することで逓減させることができる、そのような活動をこそ活発化しなくてはならない、そのように考え、実際に行動してきた成果がそれであろうと思われます。
「虐待」の根っこは、自分の内にもある。たとえば、他者への積極的・消極的な攻撃行動。ちょっとした意地悪なコミュニケーションであったり、子どもが求めているものをあえて与えない残酷さであったり(ワガママを助長するので歯止めをかけるというのではなく)、どんな人の心にも多かれ少なかれ潜んでいて、ある状況になると発動する。そういう自覚があるかないか、それは大きな精神的態度の違いです。
世の中にある、多くの「正義の活動」が、社会的認知を受けつつも、具体的な成果として現れにくいのは、その根底に、「問題を外部化する」というカラクリをもっているためかもしれませんね。
>> 以下、続く
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