欲しいのは安心と安全
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端的に言って、私たちが他者に対してコントロールの欲求をもつのは、それが自分たち自身の「安心」と「安全」をもたらすと思っているからではないでしょうか。
自分を不安に陥れるようなこと、自分の心を掻き乱すようなこと、予測できない望まぬ事態を、周囲に引き起こされたくないのです。
そこに「その人のため」「その子のため」という大義名分がくっついたとしても、ほとんどの場合、その行為の目的地は、自分が「安心」と「安全」を得られる「安住の場所」です。
私自身は、他者コントロールを好みません。
コントロールをかけられる側になってみれば分かることですが、とてもイヤな感覚、感情が身体に湧き起こります。そのような扱いを受けることを、自分の全身全霊が嫌がっているのです。
立場を替え、コントロールを他者にかけた場合、そこに豊かな実りをもたらす関係が生まれるとは、あまり思いません。コントロールによって、自分の「安心」「安全」を確保できたとしても、相手が、その行為によって「不安」と「身の危険」、「不快感」を増幅させるとしたら…。その状態は「共生」とは言いがたく感じます。
「コンシャス・リビング―人生はもっと美しく豊かになる 」より。
(P.85)
人は途方もない幻想に苦しんでいます。自分の安全を得るには、意見を中心にして身を固め、その意見の正しさを擁護することが必要だと信じこんでいるのです。このような生き方の問題点は、次の段階では、意見を同じくする仲間を募り、徒党を組んでもっと大きな安全を求めようとすることです。同じ意見を持つ人たちがまとまるなら、みんなが仲良くなり幸福になるのではないかと思われるかもしれませんが、実際にはそれとはまったく逆のことが起こります。その集団はやがて独裁的な指導者の下に団結し、異なる意見を持つ別のグループと戦うために隊列を組んで出撃することになるでしょう。そして、戦うべき「他者」がいないときには、グループは分裂し派閥争いを生み出したり、男女別の秘密クラブを作ったり、その他問題のあるやり方で戦争と戦争のの端境期を乗り切るのです。
上記引用に該当する事例は、私の周辺にも、枚挙にいとまがありません。求めているのは、「安心」「安全」ですが、そこに至ろうとするにあたり、手段やスタンスを誤ってしまいがちということです。
「安心」と「安全」を得たいがために(もちろん動機はそれらだけ、とは言いません)、勉強し、健康に気を遣い、学校を選び、勤務先を選び、結婚相手や交際する人たちを選り分け、周囲からどう見られるかに腐心する。
それによって多少の「安心」と「安全」を確保できたかのように見えたとしても、まだまだ不安でいっぱいなのが本当のところではないでしょうか。
そこでクローズアップされるのは、「安心」だとか、「安全」だとかという概念は、人生において、そもそも実体として存在しうるのか、ということです。
>> 正しいか、正しくないか
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