正しいか、正しくないか

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人が非常にこだわりをもつのも、「こだわること自体、無意味なこと」のなかでトップクラスに入るのも、「自説の正しさ」の主張や証明だと思います(こだわっているのは、当事者だけだったりします)。

私はもともと理屈っぽい人間なので(リサーチアナリストという職業柄も関係している)、矛盾のある、あるいは齟齬をきたしているストーリーは好まない。

しかし、常に、絶対に正しい見解、事柄というのはないように思います。

ひとつコレが正しいということになりますと、そうでないものは正しくないことになります。

誰しも「心地良い⇔不快」「好き⇔嫌い」「必要としている⇔必要でない」というのはあるので、自分の好みとニーズによって、どういう立場を取るかを決める、というのであれば理解できます。「私はこうする」「私はこう考える」と。

ただし、それらの言葉には続きがあって、「あなたはどうしますか?」「あなたはどう考えますか?」ということです。 自分と同様の権利を、他の人たちも保有しているのだから、それを積極的に認めるのが自然です。

物事を集団で進めることの難しさは、合意の元に、方針を絞り込まねばならないところにあります。集団にも、国際社会や国や地方自治体などの大きな規模もあれば、町内会や同好会、家族といった小グループもあります。

決め事の大きさによっては、より大きなグループでの合意に至らねばなりませんが、大枠でのルール、互いに迷惑をかけないためのマナーを除けば、「暮らしやすさ」は、総じて意思決定と行動の自由度から生まれるように思います。世の中には、決められて、指示される方が心地良い人もいますので、一概には言えませんが…。

「正しさ」は、根底にある物差しを変えれば、どうにでも変化します。時代や社会によっても違います。

だから、雑多なコミュニティが共存すること、それぞれの学校が個性的であること、多様な生き方が認められることは自然なあり方だと思いますね。自分に合った場を選べばよい。

ただし、人生にトレードオフはつきもの。
何を選択しても、「個人の自由」ではありますが、「自分の選択」により生じたことに、後から文句を言うのは筋違い。

たとえば「好きな時間だけ働いて、好きな仕事以外は一切しない人生」を選択した場合、「お金が沢山もらえ、社会的に評価される」ことが実現できなかったとしても、安易に誰かを恨むものではない、ということです。

「社会のあり方」が変わっていくことを期待するのも自由ですが、自分にとって都合よくいくかどうかは、自分のコントロールの外にあります。

次回以降は、私の読んだなかで、非常に興味深かった本「日本人をやめる方法」のなかから、若干取り上げてみたいと思っています。

>> 「班」と「グループ」