「班」と「グループ」

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共生c

日本人をやめる方法」より。

著者(杉本良夫氏)の妻が「子どもの育ち方を観察しない限り、その社会の深層は分からない」という意見をもっていたことから、子どもの通っていたオーストラリアの幼稚園に一緒に出かけたそうです。

(P.24〜25)
見学して特に印象的だったのは、先生が子どもたちを同じ場所に固まらないように遊びの交通整理をしていることである。全員がなるべく同じ遊び場に集中しないようにすることが先生の仕事のひとつだった。「いまブランコが空いているから乗ってみたら」「みんな砂場にばかりいないで。部屋でぬり絵をしたい人はいませんか」というように幼児をなるべくばらつかせて、異なる興味に誘うわけである。他人と違うことをすることが、ある程度当り前になっている。
この形は、日本の幼稚園の遊ばせ方のスタイルとは対照的である。日本では先生が遊びの音頭とりをして、一斉に同一行動をとらせることが多い。「さあ、みんなで歌を歌いましょう」「つぎは、全員で絵をかくんですよ」「こんどはお遊戯の時間です」といった具合である。全員の協調が規範になっていて、そこからはずれないような圧力が働いている。


また、背の低い子から高い子へと並ばせる日本のような教育法は、他の国では例を見ないそうです。

こういった教育現場での習慣が、日本人の無意識に、横並びの思想(人と違うことをするものではない、という思想)、集団内での序列を常に意識する構造を作っているのではないか、と著者は述べています。

アメリカやオーストラリアの学校のグループとは、子どもが自発的に作るものだそうです。

日本のように、ある目的に向かって、班同士が競い合う、あるいは競い合わせることによって、集団ごと引き上げる、班員同士が相互監視の関係にある、というやり方はとらないらしい。

「班」には、むしろ「スクワッド(軍隊用語の分隊)」という言葉の方が相応しいのでは、と指摘されています。

日本における「町内会」「QCサークル」なども、その流れにあり、そもそもアメリカやオーストラリアには、「町内会」や「回覧板」はなく、行政から直接各戸に連絡が行くとか。

では、「町内会」や「QCサークル」の存在は無意味なのか、日本の社会や産業を下支えしてきたのは、そういった「分隊」の思想ではないか。そうおっしゃる方もいるかもしれませんね。

いいとか悪いとかではなく、ここでは、日本人の無意識を、構造的に縛っている要素に目を向けたいと思います。

著者の言及で興味深いのは、「班統制」により、「権威が身近な仲間を通して表現される」というところです。しかも、班の仕組みによって、コントロールする側もされる側も、知らず知らずのうちに、相互監視のクセがつき、にも関わらず、仕組みの巧妙さゆえ、統制に参加している自分にすら気づかなくなる。

「班」経験者の方、この指摘について、どう思いますか?

私には、専門学校での教員歴があります。私に限らず、教員たちが、学生をグループ分けし、彼らに何かをさせる場合、そこにある意図(効果)はまさにこの通りでした。班同士の競争、班としての連帯責任、班内部に権威を表現化し相互監視する…。教員に何を言われても気にしない学生であっても、仲間内から嫌われ、排除され、否定されるのはイヤなものです。

プロフィールにも書きました通り、私は「愛知の管理教育」の渦中で育ちました。なので、生徒という立場で、「班」のもつパワーをイヤというほど体験しています。自分には全く関係のない出来事に対する連帯責任で、校庭の朝礼台の前で、全校生徒に面して「正座」とか、数え上げればキリがありません。班員のしでかしたことについて、「班の責任」という名目で、みんなで殴られことも1回や2回ではない。

教員になってからは、「班」のパワーを使いました。ちなみに、上記のようなスゴイことや、体罰などはしておりません。しかし、立場を替えてみると、この「班」というやり方は、日本の文化になじんだ人たちが潜在的にもっている「恐怖」を上手く利用した、パワフルなツールであることを再確認できたのです。

>> 「個」の確立を阻むもの